見たまま聞いたまま

ここ最近考えていることをさらっと書いてます。

嘘を見抜くことと当事者意識とは

今日、私の好きな芸人千鳥ノブさんが謝罪とのニュースがありました。


ノブさんの実家は岡山で、避難や寄付の呼びかけをしたり、Twitterで献身的な活動をしているのは度々タイムライン上でも見かけました。地元の方々を思う気持ちによる今回の行動だと思いますが、芸能人の持つ拡散力を考えた時、災害時などはもう少し考えてSNSを利用すべきではと個人的には思ってしまいました。


ネットに溢れる情報は嘘も多く、地震の時には、ライオンが逃げ出したというものや、京セラドームの屋根に亀裂が入っているというようなデマが流れました。


デマを流す人間はあまり悪意なく、注目やRTを集めたいという考えが中心だと思いますが、受け手の我々はどう対応すべきなのかと。SNSで流れる情報は嘘が非常に多く、会社やソースがきちんと明記されているメディアかどうか判断しなければなりません。


そもそも、こういった緊急の災害時は私を含め、当事者でもなく、クーラーの部屋でスマホを眺めているような人が、分かったように災害情報をRTするよりも、ただただ、募金をするということの方がほんの少しでも役に立てているのではないかと思います。


それは、キー局メディアの報道の少なさを嘆くことや、政府や行政の対応を安全地帯にいる人間が批判するよりも、まず自分が主体性を持ち、何をできるのかということです。


日本だけでなく、海外に目を向けると、Elon Muskがタイの洞窟の13人を助けるためにSpaceXのエンジニアを派遣したり、潜水艦をあの短期間で作りあげるような、”圧倒的当事者意識”を持っています。実用的かということや他人がどう思うかなどは置いておいて、まず実行していけるスピード感があります。これこそが世界の最先端に立つ人間のもつ力なのだなぁと。


Elon Muskの例は極めて極端なものではありますが、日本人が学ぶべきことがあるのではないでしょうか。


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去り際の美学とは

先日のワールドカップで日本代表が、ベルギー戦に負けた後のロッカールームの写真が話題になってました。





立つ鳥跡を濁さずということわざや、昔の切腹の美学のように去り方や引き際を日本人は重要視することがあます。負けたのにも関わらず綺麗に掃除して、尚且つメッセージを残していく日本チームはまさしく日本の代表です。


この文章を書いている私は今まさにワールドカップで盛り上がっていた渋谷のマクドにいるのですが、上から人を見ていると、ある若い女性が一人でひたすらポイ捨てされたペットボトルやゴミを拾っています。ボランティアでも清掃員でもなく普通の格好の彼女がなぜそのような行動をしているのか気になりましたが、私には声を掛けるような勇気は無いので、理由は聞けませんでした。


誰も見てないと思ってゴミをポイ捨てする人間もいれば、誰も見てくれているわけでもないのにゴミを拾う人間もいて、世の中はうまく回っているのかなぁと。

因果応報的な考えは割と正しいと思っていて、自分の起こした行動は、最終的に良くも悪くも自分に返ってくるものです。しかし、そういった見返りを求めず、良いことができる人ほど強いものはありません。「しない善よりする偽善」という言葉がありますが、見返り目的の善意は相手にとってむしろ害になることもあります。


私には何も力はありませんが、見返りのないように思える行動をできる彼女に少しでも良いことが起これば良いなぁと思います。

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思うこととやることの差とは

小学校から15年ほどの付き合いで、東京の大学に通う親友がアナウンサーになることが決まりました。久々に彼と会って話していて気付いたことがいくつかあったので書きたいと思います。


アナウンサーというのは憧れの職業で、そう簡単になれるようなものではありません。

これは私の認識不足だったのですが、各局、毎年男女のアナウンサーをそれぞれ数人採るという訳ではなく、女性一人のみという年などもあるそうです。そのため、難易度も高く、キー局や関西の準キー局のみを受け、落ちてしまうと、普通の就活をする学生なども多々いるそうです。

彼自身、ある地域のアナウンサーになることが決まりましたが、キー局に落ちても就職活動を続けたのはアナウンサーになりたいという強い気持ちがあったからだと思います。

私が尊敬しているのは、何者かになろうとする気持ちの強さで、そこから夢に近づいているんだなぁという点です。タレントや芸人、アナウンサーなど表の世界に出たいという人はよく見聞きしますが、本気でなろうと自らの可能性にかけてリソースを投入する人間はほんの少数です。

本気でアナウンサーになりたければ、キー局であるかなど関係なく目指し続けるし、そういう人が実際に受かるのかなぁと。


成功した芸能人の兄弟や姉妹が後から芸能界デビューするのは、近くに同じように育ってきた家族が売れるなら自分も売れるだろうという考えがあるからだそうです。しかし、現実はそんなに上手くいかず、なりたいという気持ちを持ち続け、努力した人のみが成功するものです。環境やDNA が同じでも意志の差で結果が変わってくるようです。


小学校の頃からの親友がテレビでニュースを読むというのはめちゃくちゃ面白いし、もはやエンタテインメントに近いですが、確固たる自分を持ちつづける友達を持てることはすごく幸せです。

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勝ち組、負け組とは

最近、何気ない会話の中で人生の勝ち組、

負け組という言葉がよく聞こえてきます。

個人的に好まない言葉で、私は使わないようにしているのですが、この言葉はどういった意味をもたせて使われているのでしょうか。


私の周りは自分も含め、今は就職活動についての話が大半を占め、それぞれが内定した会社について話すことがほとんどです。

そんな中、私自身も関係ない人からみた上では”良い会社”に行くことになり、

「勝ち組の人生が決まって良かったね」

と言われたりすると、大きな違和感を感じることもあります。新卒で入る会社によって人生を決めるんだ!と意気込んだ上でそもそも就活なんてしていないし、新卒の会社で人生が決まる世の中であれば非常にイージーだなぁと。


勝ち組、負け組というものは常に他者評価の上で行われるもので、その評価には自分の意思は含められていません。

また、その時点でのみの評価であるため、

非常に刹那的な、価値の乏しい言葉であるように感じます。

いい大学を出て、いい会社に入って、いい家庭を持ったとしても、明日車に轢かれてしまえば、”負け組”と評価されるわけです。


他人に対して、序列をつけながら、勝ち組、負け組と評価するようになるよりも、自分個人の”何か”を見つける方が、楽なのではと思います。

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おすすめとは

よく感じるのが、”おすすめ”ってとても強いなぁと。

私は居酒屋でバイトをしているのですが、迷ったらとりあえずおすすめを聞いてくるお客さんは本当に多いです。おすすめって何が良いかというと、

1つ目に失敗する確率が低いことです。

自分で頼んで不味いものが来るよりも、お店の人に聞くのが一番外れがないからです。

2つ目に、失敗が人のせいになります。       

人から聞いたおすすめが不味かったとしても、自分のせいにはならないからです。

3つ目に考える手間が省けます。

選択肢の中から何かを選ぶって面倒くさいので、時間使わずに済みます。


難しい話になってきますが、私が生まれた1996年からここ20年では500倍もの情報が出回り、2020年にかけてここからまた50倍になるそうです。ITやテクノロジーの進化によって世の中は非連続的に変化しています。

AIやIoTなんて言い始めればキリがありません。

情報量が増えることに対して、人間側の選択能力が追いついていかず、信頼できる人や仲の良い人の”おすすめ”をそのまま選択することはある種の合理性があります。

例えば、家電やネットに詳しくない高齢者の方々がジャパネット高田でモノを買う理由がまさにそれです。家電とか色々あってよく分からんけど、こんだけ有名な高田さんが言ってたら正しいだろうという判断です。

おすすめというものは思考を全く介することなく、停止したまま行われがちです。


居酒屋の話からITの話へ飛んだりもしましたが、最終的に言いたいのは”おすすめ”って良いよねということです。人にどんどん自分の好きなものをおすすめして、人からどんどんおすすめを聞けば、あらゆることの楽な選択ができるんじゃないかなぁと。f:id:newhouseee:20180628094805j:plain

ともだちとは

以前より、友達やコミュニティについて深く考えることが多いなぁと感じます。


最近は時間に余裕ができたこともあり、友達と会う機会が多くなりました。

基本的に自分から人を誘うことが少ないので、誘われたら喜んで行くという形がほとんどですが、その中でも、ずっと誘ってきてくれる友達がいるというのはほんとにありがたいことです。


そんな中、小中高の各段階で自分は友達が多い方だと自分の中では解釈していましたが、

果たして今に至って定期的に会う友達は何人いるのだろうと。多けりゃ良いってものでもありません。


『一年生になったら』という歌にある

“友達100人できるかな”

という歌詞は、学校の中で、友達が多ければ良いという価値観に基づいており、本来は

“友達3人ぐらいでいいかな”

という歌詞の方が、今思えば断然楽な感じがするわけです。


コミュニティ形成の理論に近い話になってくるのですが、少数のコミュニティで多くの人と関わることよりも、多くのコミュニティで少数の人と関わるほうが生きやすい世の中になってくるのかなぁと私自身考えています。一番長い時間を過ごす職場や学校、そして家庭以外の次の居場所はいくつあるか考えてみることも良いと思います。


例えば、スターバックスコーヒーには、

職場や家庭とは異なった“第3の場所”を作り出すというコンセプトがあるそうですが、世の中の人が落ち着くための居場所を求めるニーズにさにマッチしたものになっているように感じます。(インスタ映え、オシャレ感ももちろんあると思います。)

また、最近やたら不倫が多いなぁと感じるのも職場と家庭以外の”第3の場所”を求めて、結果的にそれが不倫相手となってしまうパターンなのだと思う次第です。


一つのコミュニティ、一人の人間に”依存”することは相手にとっても自分にとっても良いことではなく、自分の居場所を探し続け、掘り当てるような能力が必要なのではということです。

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ブログを始めることとは

私自身、人のおすすめをそのままやってみたり、人がしてて面白そうなことを真似してやってみるということを意識的に行なっています。例えば、よく分からないバンドのファンに、おすすめの曲を言われれば、とりあえず聞いてみたり、筋トレをすすめられれば、とりあえず腹筋、腕立て伏せから始めてみたりしています。

その中で、私の周りにもブログをしている友達がいて、今からブログを始めるのって周回遅れだなぁと思いながらも暇だからやってみることにしました。


人が何かを始めることに意味を求めたりしがちですが、これを始めることにはなんの意味もありません。飽き性なのですぐ辞めるだろうなぁと思います。日記は小学生の宿題から今に至るまで書いたことがありません。

しかし、現時点で考えていることを、人に見られるものにするという多少の自意識の中でアウトプットして、置いておくという点でいえば、ほんのすこしだけ価値があるような気もします。


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